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2006年04月29日

千本桜 - 渡辺保


義経千本桜の薄っぺらい解説本に含まれていた「歌舞伎をみるために」みたいな文章にとても説得力があったので、古本屋で見つけて面白そうだった本書を図書館で借りて読んでみた。

義経伝説、狐、鮨、桜、天皇・・・と千本桜を構成するいくつかの要素を念入りな取材・研究を元に詳述していく・・・というのが著者のスタイル。読んでいてちょっとクドいかな、という気もするけれど、最終的に彼が提示している意見はとても説得力があるし、芝居を考える上で斬新な視点を提供してくれるように感じる。

この本を読んでいて一番面白いと思ったのは、原作を執筆した浄瑠璃作者達がいかに多くの要素を物語りに盛り込んでいたか、ということ。
浄瑠璃でも歌舞伎でも上演されるたびに少しずつその形が変わっていくわけだけれど、物語の中に含まれるエッセンスは変わらずに保たれ続けて、どこかで物語の輪郭を形作っているように感じられた。

2006年04月28日

南極越冬記 - 西堀 栄三郎


面白かった!

敗戦後の日本が世界と協力して、南極調査を行うための最前線基地として切り拓いた昭和基地で1年間を過ごした人たちのリーダーの記録。

この11人は本格的な観測を行う前に「無事に越冬すること」を主な目的として組織された予備越冬隊だったらしく、隊員はみな研究のプロではないがそれぞれのフィールドで卓越した力を持った人たちばかり・・・。
富山県・芦峅寺の佐伯さんや、犬ぞりのスペシャリスト、それにエンジニアやドクターなどなど。

沢山の予測不能な自体が隊員たちを襲うものの、強烈なリーダーシップのもとに逞しく困難を乗り越えていく記述がとてもよい。
一説によると、この本は梅棹忠雄さんによるゴーストライティングらしいのだけれど、全ての元ネタは西堀 栄三郎さんによる日記の断片によるものなので、ノンフィクションとしてのダイナミズムは全く失われていない。

越冬後に引き続いて観測を行うはずであった第二次越冬隊は、結局南極の氷に阻まれて基地にたどり着くことが出来なかった。
第一次隊とともに冬を越した犬達は首輪をつけたまま1年間昭和基地に置いてけぼりにされたものの、奇跡的に2匹が生き残った話は映画・南極物語で描かれているので有名。

外部の世界と一切の接触がなく、かつ本当に沢山のリスクに囲まれた生活の描写としても非常に優れているし、西堀さんという人間を支え続けた研究者魂(または好奇心)の真髄があちらこちらで描かれていて、とても面白い読書であった。

2006年04月23日

新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか - 加藤隆


どこかの本屋で見つけて図書館で借りてみた。
新約聖書の成り立ちから、初期キリスト教の権威であったエルサレム教会、それにイエスの時代のユダヤ人社会の解説まで、細かいところまで手が届いている本。

マルコ・ルカ・マタイによる福音書は「共感福音書」と呼ばれているらしい。研究の結果によると、ルカ・マタイの底本としてマルコによる福音書が存在し、さらにもうひとつの底本によってルカ・マタイはそれぞれ独自の部分(一部はルカ・マタイで共通)を足したもの、とされるのだそうだ。

著者の考察によると、「始まりの福音書」と考えられるマルコによる福音書は、イエスの死後初期のキリスト教(ナザレ派)の権威を持っていたイエスの直接の使徒達(アラム語しか話さず、みな生粋のユダヤ人)に独占されていたイエスの教えを当時の国際語であったギリシャ語でまとめることにより、キリスト教を世界的宗教にするためのきっかけを作った、と考えることができるらしい。

「聖書」と聞くと自動的にあの分厚い本を思い浮かべてしまうけれど、あの本が成立するためには数々の苦労や葛藤、それに対立があったのだろうなぁ・・・と思い知らされた。

2006年04月22日

ウェブ進化論 - 梅田望夫


とある人がおすすめしていたので読んでみた。

インターネットは社会の何を変えようとしているのか。
ネットバブルとは何だったのか。
ロングテールとは何か。
Googleの何がそんなにすごいのか。

PCとインターネットによるコンピューティング世界の革命という観点や、それらを対比(マイクロソフトとグーグルを比較するとよく分かる)しているあたり、とても面白く読めた。
自分にとっては、自分の頭の中でモヤモヤして、どことなく理解していたことをしっかりとした言葉でまとめてくれた印象が強く、日頃から強く思っていることを代弁してくれたような本。「あぁ、そうそう、そうなんだよぉ~」っていう内容。

「Googleはインターネットの声を聞いて開発を続けているんだ」という言葉は目から鱗。そうだよね、たしかに「インターネット的な合理主義」をつきつめていけば、いつもGoogleのやっているところに結びついていくような気がする。
これは現在メディアを扱うツールとしてのPCにおいてAppleがやっているのと同じで、要は既存の常識やルールにとらわれずに考えれば、誰だって突き進むことができる道なのだと思う。この道に辿り着いて、走り始めることが凡人には難しいのだけれど・・・。

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最後の方にも書いているけれど、著者は常に挑戦し続けるシリコンバレー的姿勢が大好きで、日本の企業にもそういった風土を持ち込むことを願っていたようだ。
日本的なネチネチした空気の中で、本当に革新的であっけらかんとしたGoogleのようなものが生まれることは期待できないかも知れない。だけど、Googleなんかより、もっともっと小さな規模の企業や集団でも面白いことができるのがインターネットの強みだ。本質的にシステムのルールを自分で紡ぎ出せるような存在にはなりえないとしても、ピリリと辛くて、世界中に影響を与えるような何かが育つ可能性は十分にあるのではないかな、と思った。

2006年04月16日

考えるヒント - 小林秀雄


ウェブサイト・借力の谷口さんが面白そうに読んでいるようだったので、まねして読んでみた。

小林秀雄さんのことはよく知らなかったのだけれど、本当にたくさんの知識を自分の血として、肉として持っている人だなぁ、と思った。
ロシア文学から平家物語、本居宣長、そしてヒットラーまで・・・、この人の手にかかるとありとあらゆる物事が繋がっているかのように思われる。

今あるものから新しいものを発想したり、何か他のものへと繋げる能力。これこそがアイディアを生み出す源泉だと思う。
サラリと読んでしまったけれど、旅にでも持ってでて、時間のあるときにでもゆっくり読むことができたらよい本だ。

2006年04月12日

垂直の記憶 - 山野井泰史


山野井さん自身の手によるクライミングの記録。
全てヒマラヤ山系に属する高峰で、アルパインスタイルによるスピーディーな登攀が描かれている。

彼がソロ・クライミングで感じる心の落ち着きや充実感の表現にとても強く共感する。何回かのパーティーでの登山も記憶されていてそれはそれで充実したものもあったようだけれど、「山を登る」という行為を一番シンプルな形で実践しよう、となると、大きなパーティーになるのは色んな意味で苦痛なのだろう。

例えば、彼が初めてチャレンジした8,000峰のブロードピークへは日本の登山隊の一員として行っているのだけれど、純粋に「山を楽しむ」、という行為が損なわれた点に関して、「それぞれ良い人ばかりだったが、隊員どおしのあまりにも複雑な心の動きばかりが気になる登山だったと思う」と書いている。

山に限らず、何事においても自分の主観によってあらゆる局面に対してアナログに接していくことにこそ、生きる楽しみがある。こと山に関して言えば、山野井さんという人はこの点を知り抜いている人だと思った。

2006年04月08日

デジタル音楽の行方 - David Kusek & Gerd Leonhard


デジタル技術がどのように音楽業界を変えつつあるか、ということについて論じられた本で、一番よくまとまった本。
何せ、本を書いているのがMIDI規格の開発に携わった人と、音楽ビジネスの前線で活躍している人なのだから、当然と言えば当然。やっぱりちゃんと分かってる人は分かっているのね、という内容。

商品パッケージとしての音楽が、ただ単純にモノであったり客寄せ目的で売られている、という事実を「問題」である、と思えるくらいの常識人であれば、この本で論じられている内容があてずっぼうに書かれた夢物語ではないことがよく分かると思う。

本の中で繰り返し繰り返し言われているけれど、結局技術の進化によって何か新しいことができてしまうようになった場合、その技術は何らかの本質的なメリットを本質的に関係している人たちに*のみ*与えることになる。だから、仮にデジタル音楽がタダで手にはいるようになったからって音楽業界ってものがなくなってしまうわけではなくて、音楽を作る人も聴く人も、それを選別したり広めようとしたりする人も存在し続ける。単純に、これらのプロセスがより効率的になって、音楽を聴く人にとってより音楽が身近になるだけのことだ。「音楽」という文化の根幹部分には全く影響を与えない。何と言ってもイケてる音楽はいつだってイケてるし、イケてない音楽はいつまでたってもイケてないのだから。

個人的には、これまで類似本を何冊も読んでいる上に普段から本で取り上げられているようなことを考えているので70%くらいは「あぁ、そうだよね」ってな感じでペラペラ読んでしまった。

図書館に置いていないので、しかたなく自分で買ったのだけど、
チープなノリの表紙がイケてないことを除けば、技術的な話も、音楽文化、ビジネスサイドの話も全て適切によくまとめられている良い本だと思う。

2006年04月06日

良い経済学 悪い経済学 - ポール・クルーグマン


最近、いいなぁ、と思っている人のリストに"Paul Krugman"なる人が追加されることになった。理由は簡単「経済学アレルギーを治してくれた」から。

大学生の頃から国際経済学及び経済学一般には興味を抱いていて、色々と勉強しようと苦心したのだけど、いつも似たような議論が出てきて分からなくなって諦める・・・という情けないパターンにハマっていた。さらに会社に入って仕事をするようになってからも、それっぽい本なんかを読んだりしていたのだけど、どうにもこうにも納得のいく「経済学」に出会うことができず、「結局、お金の動きだけで人間社会の仕組みを解き明かすのは無理だよ」っていう自分なりの結論に落ち着いていたのだった・・・。

で、この本を読む前に読んだクルーグマンさんの「クルーグマン教授の経済入門」で、きちんと「経済学が解き明かすことのできる限界」について書いてあることと、「世間一般に信じられていることと経済学とでは完全に矛盾することが往々にしてある」ということが何となく理解できてとてもスッキリした。

今回読んだ「良い経済学 悪い経済学」は「クルーグマン教授の経済入門」の前に出た本なのだけれど、扱っている内容が10年以上前の古いものであるにも関わらず、現代でも完全に通じてしまうとても的確な指摘がなされている。

まず、冒頭から「国と国とが経済的な競争をしている」妄想に対して真っ向から異論を唱えているのだけれど、これがツボにはまった。
メディアによって取り上げられる経済学には大抵勝者と敗者がいて、決まったサイズのパイの奪い合い合戦であるかのように報じられることが多い。「勝ち組」だとか「負け組」なんていう言い方にも通じるところがあるけれど、企業間の競争ならまだしも国家という単位で「経済的」な「競争」が行われている、という理解はよくよく考えれば全然ミスリーディングであることに気づく。このイメージは一般的に受け容れやすいから繰り返し同じようなノリで伝えられてきているのだと思うのだけれど、経済学の本分はこういったミスリーディングを助長するのではなくて、きちんとジャスティファイするものとして機能するところにある・・・というクルーグマンさんの意識がとても強く伝わってくる。

メディアは小さな声を拾い上げて拡声して多くの人に伝える・・・という機能を持っていると思うのだけれど、どの「小さな声」を選択するかはメディア自身によって選ばれているのと同時に拡声されたものを聞く人たちによっても選ばれている。で、世の中に何らかの主張を行いたい人がいたとして、その人がその主張を世の中に広めるためのツールとしてメディアが乱用されてしまった場合、それは一般的にメディアの視聴者の耳に心地よく、違和感なく届くものであるものとして伝えられるのだ。