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2006年03月31日

クルーグマン教授の経済入門 - ポール・クルーグマン


山形浩生さんの訳。
1997年当時の内容だけど、経済学が胡散臭い科学なんかじゃなくて、一応それなりに正当性を持った部分を持っているんだよ・・・ということを説明してくれる。

主にアメリカ経済の話をしているのだけど、どこの国でも一般的なインフレや不況、失業率等の関係で「実際のとこ、どうなのよ?」といった内容まで教えてくれるのでとてもありがたい。

- 各国間の貿易は、本来そこまで一国の経済に大きな影響を与えるものではない(心理的な面は大きいものの・・・)
- 保護貿易はそんなに悪いものじゃない
- インフレだって、そこまで悪いものじゃない
- ユーロはもともと共通通貨を作るのではなく、通貨レートを安定するための仕組みだった

ホンモノの経済では、純粋な資本や資産の動きだけでなしに、様々な情報とそれに付随する限りなくカオス的な状況によって「結果」がもたらされるため、事実を見ようとすれば見ようとするほど何がなんだか分からなくなってくる。
クルーグマン教授の素晴らしいところは、そこで一歩ひいた態勢から「フム、冷静に考えると実は・・・」という立場にいることなのだと思った。

2006年03月27日

ファウスト - ゲーテ


前からずぅ~っと読もうと思っていて、ようやく読むことができた。

詩聖ゲーテが彼の人生の大半をつぎ込んで完成させた物語。
メフィストフェレスという悪魔が、ファウストという高潔な人物と契約してこの世の全ての快楽を与えることを約束する・・・。

もともと読もうと思い立ったのは、ユングの自伝を読んでいて、彼の子供(青年)時代にこの物語を読んで強い影響を受けた、というくだりを読んだから。
人間にとって途方もなく大きな「欲望」だとか「期待」だとか、そういったものを全て包み込んだ大きな物語であることは漠然と分かっていたのだけれど、詩的な美しさとスケール感、それにゲーテの人間に関する深い洞察が幾層にも積み重ねられた素晴らしい物語だった。

まだまだ物語の大きさに戸惑っていて自分のファウスト体験は全然地に足がついていないのだけれど、もう少ししばらくだけ、この素晴らしい余韻に浸ることで理解を深めて行ければよいと思う。
世界は美しい。

2006年03月26日

凍 - 沢木耕太郎


図書館で予約したものの、待てど暮らせど順番にならないのでしびれを切らして本屋で立ち読みしてしまった。

クライマー山野井泰史さんと山野井妙子さんのギャチュンカン北壁の登攀を見事に描き出した本。登攀の描写と前後して彼ら二人のクライマーとしての自由奔放な生活にもページが割かれている。

以前読んだ「単独登攀者」で山野井さんの山にかける執念と、そのストイックな生活態度はよく分かっていたつもりなのだけれど、奥さんの妙子さんも合わせて、とにかく心の底から山が好きで、本当に強い人たちなのだな、と思った。
無理を承知でアタックをかけて、本当に体ひとつで8,000m級の山と対峙しながら集中してクライミングをやっている自分に感動する・・・というくだりは本当にスポーツ馬鹿なんだな、と心底思う。

自分もテニスやらサッカーやらで一糸の乱れもないような心境になって、それを心の底から楽しむことができるのだけど、クライミングでその境地に達したことはない。頼れる仲間がいて、楽しく登ることができるのは本当に素晴らしいのだけれど、ああいった陶酔しているかのような境地に至るにはもっと自分の持っている全てを投げ出して登らなければいけないのだろうなぁと思う。

「死のクレバス」で生還したJ.シンプソンにも通じるのだけれど、二人があの状況から帰ってくることができたのは、常に自分を信じて行動することができていたからだと思う。
その意味で、彼らは一般的な意味での「遭難」はしていないのだろうと思う。「甘え」は「無駄」を生むし、「自信」をなくしたら人は遭難してしまうのだ。

ラダック 懐かしい未来 - ヘレナ ノーバーグ・ホッジ


1970年代からラダックで研究生活を営んできた西洋人の女性が「人類の未来」を語った本。

彼女がその地に住むようになってから何年かの間に、何百年も同じ生活を続けてきたラダックの人たちにも、西洋的な開発の波が押し寄せてくる。
この変化は昔ながらの生活を営む人たちに多かれ少なかれ影響を与え、さらには人生勉強の初期過程にある若い人たちの価値観を強く揺さぶる。

彼女が幸運にも垣間見ることが出来たラダックの昔ながらの生活は、人間が生きていくうえで必要になるささやかな調和を合成するとても優れたサンプルであったようだ。この調和が目の前で崩れ去っていこうとする時代もまた、彼女にとって現代人が直面している沢山の問題がどういった種類のものであるかを感づかせるのに(皮肉にも)大きな働きをしたように思われる。

人が生きていくのに本当に必要なものは何なのか?
個人個人が生きていく中でのショック吸収剤として機能する社会は、どこまで必要なのか?

・・・多くの問題を考えさせてくれると同時に、彼女の率直な意見がたくさん提示された面白い本であった。

2006年03月22日

雪 - 中谷宇吉郎


雪の結晶に関する研究から、人口雪を作り出すことによる雪が作られていく過程の秘密を解くための研究までが詰まった魅力的な本。

雪の結晶というと大抵あの雪印を思い描くわけだけれど、こと日本ではそのほか沢山の美しい雪の結晶のカタチがあることを初めて知った。
なんといっても日本は海に囲まれて湿気が多い上に、立派な山が聳え立っているおかげで、複雑怪奇な降雪条件を観察するのにうってつけの場所であったらしい。

静かな山奥でしんしんと降る雪を観察する・・・。なんてロマンチックで、なんて科学的で、なんて素晴らしい体験なのだろう・・・と清清しい気分で読むことができた。

2006年03月19日

論語 - 孔子


ついに、というべきか、ようやく、というべきか、「論語」を全て書き取るプロジェクトが完了した。

岩波文庫版のものなので、収録されていない巻があるような気もするのだけれど、2004年に初めて以来足掛け2年でようやく終わる「読書(?)」ってのも珍しい。

もともと論語を読もうと思ったのは司馬遼太郎か誰かが「日本人でちゃんと論語を読んでる人はいないのに、ステレオタイプな孔子の人物像ができあがってて云々」みたいなことを書いているのを読んで以来。そこからさらに「現代人の論語」なんかでさらに「論語」への理解を深めて取り組んだプロジェクトだったわけだ・・・。

一番印象的だったのは、

「子の曰わく、由よ、女にこれを知ることを教えんか。
これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。
是れ知るなり。」

の部分。孔子の合理的な思考を顕著に表していると思う。ソクラテスが若い頃に到達したデルフォイの信託にも似たところがあってとても面白い。

「人の幸せ」だとか「社会・国のあり方」なんていう複雑にこんがらがったものにタックルした人は、一般的にその人の存命中とそのあとの数世代はそれなりにきちんと理解され続けるけれど、そのあとの時代のゴタゴタや巨大な権力なんかによって乱用されたりしていくうちにオリジナルの精神性をなくしてしまうものが多い。
仏教もキリスト教も巨大権力と結びつくと同時に類まれな力を発揮してよいように作り変えられていってしまったし、これはそのほか一般の宗教や思想にも当てはまる。

そんな中、近代では「保守的」と攻撃されながらも上のような言葉を残している孔子という人は、宗教者だとか政治家というよりはどちらかというと中国式の哲学者だったのではないか、と感じた。

2006年03月18日

郵便局と蛇 - A.E. コッパード


コッパードの物語はとても不思議だ。
淡々と物語を語っているようでいて、とても複雑な現実をそこに描写することに成功しているような気がする。短編であるがゆえに物語の核心部分をうまくついて、それぞれの物語が素晴らしく異なった表情を持っているのだ。

適当にパラッと読んでしまったところもあるので消化しきれていないけれど、この本をリコメンドしていた山形浩夫さんの気持ちはとてもよく分かった気がする。
いくつかの物語はアニメーション作品にしたら面白いかも知れない。

2006年03月11日

川島雄三 乱調の美学 - 川島雄三


川島入門によい、という評価だったので入手してみた。

彼の作品に携わった人たちによって語られる川島監督は、とてもヤンチャで不良で、弱くて普通な人間として浮かび上がってくる。
酔っぱらった時に絡んで、周りの人に辛辣な言葉を投げたりする彼はとても生身で弱いけど、現場の人たちを信頼して、自分が間違っていればきちんと自分を捨てることができた彼は「映画を作ること」に対してとても真摯な態度を貫いた人だったのだな、と思う。

健康に生きている我々はたまにしか「死」を感じる機会がないけれど、体の不自由さと呪われた血のもとに生まれた彼にとって死は本当に身近なものだったのではないだろうか?恐らく、幼いときに母を亡くしたり、慕っていた姉をなくしたりしたショックが彼の原体験としてあり、人生を通して日常的な「死」が彼を突き動かしていたのではないか?と想像する。

自分の中ではひとつの映画を作るのはとてつもなく大変な作業のような印象があるのだけれど、本の中の人たちはそれをいとも簡単な作業のように言っているのが自分にとっては驚きだった。

2006年03月05日

エーゲ・永遠回帰の海 - 立花隆


最近忙しくなってきたせいか、読みたかった本にガンガン手を伸ばしている。

例えば、本当は今日はゲーテの「ファウスト」の下巻を読もう、と思っていたのだけど、同じ週にアマゾンから届いたこの本は、ページを繰ってしまったら最期、ついつい読み通してしまうほどに面白い一冊だった。

立花隆が20年以上前に行ったエーゲ海近辺の旅行記+な本で、同行したカメラマンによる写真と、ギリシャ・ローマ・キリスト教世界に対する立花隆の鋭い指摘が収められている。
個人的によいなぁと思ったのは、エフェソスのアルテミス像と、キリスト教の成立に関わる話、それに聖山アトスを訪れる部分と最後のほうの哲学に関する彼の率直な意見が述べられているところ。

「一枚の写真に触発されて旅に出ることは、珍しいことではない。インドのベナレスを訪ねたのも、トルコのカッパドキアを訪ねたのも、あるいはエジプトのルクソルを訪ねたのも、すべては一枚の写真からはじまっていた。
一枚の写真の持つ情報量はしばしば驚くべきレベルに達する・・・」

なんてあたりは本当に共感できる。
本全体として見ると少しまとまりに欠ける感があるが、優れた写真が沢山収められていることもあって、とても有意義な読書になった。キリスト教社会の成立と発達は、今後もゆっくりと時間をかけて勉強していこうと思っている。

ファインマンさんベストエッセイ - リチャード・P・ファインマン


立花隆の記事で、チャレンジャー号の事故の究明委員会に招集させられたファインマンが事実を追いかけた際の報告書がこの本に載っている・・・とのことで読んでみた。

彼が行った講演や、件の報告書、それに数々の興味深いインタビューが収められている。
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」で彼の性格はよく分かっていたつもりなのだけれど、この本では彼の科学者としての顔がとても強調されているように感じられる。もちろん、自身の研究なんかに関する細かい話があるわけではないのだけれど、「科学すること」ということに関して、彼のひたむきなまでに真摯な姿勢がところどころからにじみ出ているのだ。

まず、彼が強調するのは「科学とは不確かさを見極めるものである」ということだと思う。科学に縁のない人が科学が絶対的な何かであるかのように感じていることを彼は大いに不満に思っているらしく、自身の研究成果に関しても多くの不確かさがあることを隠そうとしない。

ファインマンが科学的な思考方法を得るきっかけになったのは、どうやら彼の父親の影響らしい。
セールスマンだった彼の父は、独学で沢山の科学知識を身につけていて、幼いファインマンに世の中には沢山の物事の捉え方があることや、権威や肩書きがいかに馬鹿馬鹿しいものかを教えてくれたのだそうだ。

科学の本質とは「そこにあるものを解明すること」、ただこれだけにある、という彼の意見は本当にクリアーで、ついつい断定的に物事を見ようとしてしまう僕にとって貴重な戒めだ。
この辺りの議論はウィトゲンシュタインの論理哲学思考でも展開されたものに通じる気がするし、ギリシャで哲学(及び自然科学)が生まれた初期の混沌状態もこういったものであったのだろうと想像できる。

最近忘れかけていた「科学の心」を久しぶりに起こしてくれた気がした。ありがとう、ファインマンさん。

氷の回廊―ヒマラヤの星降る村の物語 - 庄司 康治


ヒマラヤの奥地、ザンスカール地方で冬の間に凍結した川を使って村と街との間を行き来する旅人の姿を綴った写真集。

どの写真もとてもとても印象的で、今年中に是非行きたいな~と思っている場所の周辺なので、とても満ち足りた読書体験になった。
もともとNHKのドキュメンタリーとして作られたものらしいのだけど、想像を絶する厳しい環境の中で、不便を感じながらも先祖達から脈々と受け継いできた生活を続けている人たちの姿は強く心を打つ。

希望、というか、夢、というか、やはり人間にとって「完全に満ち足りた状態」なんてものは存在しないのだなぁ、と改めて思う。
置かれた状況に応じて都合よく「あぁだったらいいな」とか「こうだったらいいな」とか考えて、それに向かって人の意識は向かうようにできている。そもそも人間の思考回路なんてのはそのために「現状改善のためのフィードバックシステム」として生まれたわけだから、当然といえば当然なのだろう。
それが自然科学的な探究心に結びつくのかもしれないし、沢山の人の命を奪う戦争に結びつくのかもしれないし、それは本当に人間次第なのだ。

<子>のつく名前の女の子は頭がいい - 金原克範


なんてバカバカしい名前の本だろう。
前に本屋で見かけた記憶があるのだけれど、その時は多分こんなことを思って素通りしていたに違いない。

・・・で、山形浩生の本でべた褒めされたいたので読んでみたのだけど、これがかなりまっとうな主張をしている本であることがよく分かった。
まず、タイトルの「なんてバカバカしい名前の本だろう。
前に本屋で見かけた記憶があるのだけれど、その時は多分こんなことを思って素通りしていたに違いない。

・・・で、山形浩生の本でべた褒めされたいたので読んでみたのだけど、これがかなりまっとうな主張をしている本であることがよく分かった。
まず、タイトルの「

2006年03月04日

Report from Iron Mountain - On the Possibility & Desirability of Peace


最近読んだ山形浩生の本に「解説」が紹介されていて、なかなか面白そうな内容なのでフリーで公開されているものを印刷して読んでみた。

政府寄りのシンクタンク系な資料を偽装して書かれた文章なので、とにかく読みにくい。山形浩生の訳だから、とかそういう事ではなくて、単純に何を書いているのかはぐらかしてしまおうとするような嫌らしい文章なのだ。

ただ、内容はウィットの効いた物事(ここでは“戦争”)の核心を突いていて、「ただの偽装・政府文章」としては片づけることのできない論理展開を含んでいる。

まず、この文章では「一般的な平和が達成可能か」という謎かけに対してそれなりに納得のできる答を見いだすことに主眼が置かれている。その結果示されている答を単刀直入に言うと「NO」なのだけど、この文章が執筆された1960年代だけに限らず、70年代でも80年代でも、現在において十分に納得できてしまうくらいにリーズナブルな議論が展開されているのだ。

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少し後付けの感もあるけれど、僕がエンターテイメントの世界で働こう、と思ったのは、「近代文明って十分発達しちゃったから、これ以上余剰所得を増やすよりも、食い扶持に困ってない人を全てをエンターテイメントシステムの中に取り込んでしまえばええじゃないか」と大学生の頃に思ったことが一番大きな理由だったりする。

その意味でもこの文章の中で触れられている「戦争に代わる経済的・社会的代替システム」の実現は本当に難しくって、いかに人がスチャラカに楽しく、そして気持ちよく生きていけるかを改めて考えさせてくれるよいきっかけになった。