クライミングマシン

山登りをやっていると、緊張感と爽快感が入り交じった感情が爆発してスイッチが入り、「ハイ」になることがたまにある。

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緊張を強いられるルートでふと周りと見回した時にとんでもない景色が見えたり、長くて苦しい登りの終わりで頂上が近かったり、クライミングルートの途中で物凄い高度感だったり・・・とかまぁ、色々なきっかけがあるのだけれど、その興奮状態に入ると人はクライミングマシンと化して、普段では考えられないようなパフォーマンスを発揮してがむしゃらに上を目指して登る機械に変身する。少なくとも自分の場合はそうだ。

身の安全が100%確保されているような場所でこの感覚を覚えたことはないので、恐らくこれは人の生存本能に関係のある何かなのだと思う。この興奮はなんともいえない快感を伴い、脳内ではヤバい物質が分泌されているに違いなく、本来は苦しいはずの「登る」という行為が気持ちよさに変わっていく・・・。きっとこれは本能が危険な場所から逃げることを要求していて、それで(無理をしてでも)身体に「その場所から逃げること」を実行させるための仕組みなのではないか、と自分なりに勝手に解釈している。

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自転車競技でも似たような感覚を覚えることがたまにあって、それはやはり身体的能力が最大限に使われていて、しかも高い緊張感を必要とされるようなシチュエーションが多い。集団の中で限界ギリギリになりながらも集中を切らさずに走っている時だとか、アタックして飛び出して「さぁこれからどうしよう」といったような時だとか、身体的・精神的ストレスがしきい値を超えた時に「それでもまだプッシュしないといけない」時にそういうモードに入るのかなと思う。

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山登りという活動は様々な分化を繰り返してきて、クライミングの難しいところだけだけを切り出したフリークライミングだとか、登りはリフトやゴンドラに任せて下りだけを滑るゲレンデスキーだとか、「オイシイところだけ」に限定された活動がポピュラー化してきた歴史的経緯がある。

でも、個人的に好きなのはやっぱり「全部入り」の楽しみ方だ。重い荷物を背負ったアプローチ、雪渓の上り下り、しょっぱいクライミング、安定しない天気、道に迷いながらの下降、テントでの快適な夜・・・などなど、個人として、パーティーとしての総合力を試される「山登り」こそが、いつの時代も変わらない王道的な山との付き合い方なのだと思っている。「山」は自然環境も含めた様々な要素が複雑に絡んでいるからこそ面白いのであって、オイシイところだけをピックアップして「山遊びでござい」というのはいまひとつ自分の趣味に合わない。

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そう考えると、自転車競技の「全部入り」の楽しみはやっぱりロードレースなのかな、と思う。猛スピードの平地、苦しい登り、豪快なダウンヒル、相手との駆け引き、血の味のするアタック・・・。持久力とアタック力、自制心と勇気。純粋な力勝負のヒルクライムもそれはそれで素晴らしい競技だとは思うけど、やはりロードレースの魅力を知ってしまうとヒルクライムは少し物足りなく感じてしまう。

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・・・とかなんとか、暑苦しい文章を書いてみたのはある本を読んだのがきっかけ。

冠松次郎から脈々と連なる沢狂(キチ)の血を受け継ぐ著者による沢登り賛歌。国内随一の難易度を誇るあれやこれやの沢の遡行図も載っているので、ハイレベルな人たちにとっては優れたガイド本としても使えるのかも。

普通の山登りとも、フリークライミングとも違う魅力をもった沢登りの素晴らしさ、面白さ、厳しさ、変態さがたっぷりと詰まっていて、とにかく読ませる。著者に言わせると、「沢登り」には、今の時代に失われてしまった冒険的要素が多分に残っているとのこと。必要以上に整備された登山道、快適な小屋泊まり、そしていざとなれば携帯で助けに来てくれる救助隊。・・・こういったものに(部分的にしか)頼ることができず、シーズンごとにその姿を変え、二度と同じコンディションにはならない沢登りには、常に新しさがあり、緊張を必要とされる厳しさがあり、脳味噌がとろけるような美しさがある。

国内にある難度の高い沢、マニアックな沢、ひたすらゴルジュが美しい(そして厳しい)沢、さらには台湾の大理石のゴルジュが続く素晴らしい沢を遡行した記録まで、著者が何十年もかけて登ってきた印象的な沢の記憶が自由&瑞々しい文体で綴られている。

沢登りに興味のある人であればとても楽しく読めると思うと同時に、沢登りを知らない人でも「こんな世界があるのか!」と衝撃を受ける内容の本だと思う。

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そこには、神も竜も魔物も棲んではいなかった。何もかもが霧にかすんで捕らえどころがなかったあの日の大滝に勝ることはできなかった。人跡まれなこんな秘境にこそ、人知を超えた何ものかがあってほしかった。それを見つけ出すために、沢登りという行為は存在している。
(P.19)

左右を暗く閉ざす壁、底なしの長い瀞、下腹部を刺激する氷塊水。泳ぎながら、ゾクゾクと震えに襲われる。どこかから「やめておけ!」とそんな声が引き止めている。だが、不安とともに込み上げてくるこの感じはなんだ・・・。禁断のページをめくるような秘かな悦び。誘い込まれるように暗い深みへとはまっていく、そう、エロスの世界に共通するものがゴルジュ遡行にもある。
(P.64)

未知への探求こそが沢登りの本質だと僕は思っている。誰も知らない世界を覗き込み、こわごわ足を踏み入れていく。あの時の恐怖と甘い誘惑。倒錯と陶酔。絶品とも毒とも噂されるキノコをこわごわ一切れ、二切れと口に運んだあの時の、しびれるような感覚が未知の沢の遡行にはある。ところがどうだろう。あふれる情報に振り回されてはいないだろうか。書店には釣り雑誌や沢の本がいくつも並び、遡行図も写真も手に入る。ほしいものがなくても、今では誰でも自分の家でピコピコ音のする四角い機会が世界とやらをつないでいるらしい。
(P.160)

確かに厳しい遡行には新しい自分の発見へとつながる面白みがある。その谷でしか決して見られない、感じられない風景や素晴らしい一瞬が隠されていたりもする。でも、かといって、自分の目標を設定できずに、安易に険しいといわれる谷ばかり遡るのは、誰かの決めた名山を盲目的に追いかけているのとさして変わらない。どんな谷に向かうにしても、自分なりのこだわりや何らかのテーマがなければ沢登りは希薄にはっていってしまうだろう。日本百名渓を、あるいは日本十大険谷の完全遡行が目標なんて、あまりにみみっちいじゃないか。せいぜい遡行スタイルを良くしたところで、どれほどの違いがあるのだろう。
「沢ヤの本懐は未知の谷の解明にあり!立ちはだかる未踏の大滝の向こう側にあり!」
僕はそう叫びたい。
(P.164)