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2008年10月08日

考具 - 加藤昌治


Title: 考具―考えるための道具、持っていますか?
Author: 加藤 昌治
Price: ¥ 1,575
Publisher: 阪急コミュニケーションズ
Published Date:

とても上手に書かれた「アイディアの出し方・まとめ方」本。

カラーバス、メモ魔、マインドマップ、マンダラ図、オズボーンのチェックリストなどなど、色んな面白いツールが紹介されている。別にアイディアが欲しくて読んだわけじゃなかったのだけど、カラーバス(=「今日は“赤”」みたいに日ごとに色を決めて、街を歩くときにその色に注目することでアイディアのネタを収集するテクニック)なんかはすぐにでも試せるからチャレンジしてみようかな。

そういえば、大学の時に就職活動していた頃は、自分が何をやりたいかをまとめるために大量のメモをノートに書き込んでいたなぁ。会社に入ってからも、仕事と関係ないことをちょくちょく書き込んでいたっけ・・・。

すぐ何かの結果に結びつかせる必要はないにせよ、日頃からアンテナを張って面白いものに見て耳を澄ませるようにしておけば、貴重なアイディアのネタを蓄積できるんじゃないかと思った。

2008年04月18日

貝と羊の中国人 - 加藤徹


Title: 貝と羊の中国人 (新潮新書)
Author: 加藤 徹
Price: ¥ 756
Publisher: 新潮社
Published Date:

京劇の研究者による「中国人」論。

読者が興味を持ちやすいように分かりやすいネタを提供しつつ、幅広い視点から中国人や中国文明を俯瞰している。さすがは民衆の間に根付いていた京劇の研究者だけあって、中国の人たちの生の考え方や感情をうまくすくい上げて、全く異なる感受性を持っている日本人にも理解しやすい形で説明しているなぁ、と感心した。

この本を読んで改めて思うことは、中国って「スゲェナァ」ってこと。
近代国家としての中国は歴史が浅いし、どうも好きになれないところも多いのだけれど、人とか、食べ物だとか、長い時間をかけて紡ぎ上げたり壊してきた文化といった意味では、これだけパワフルで面白い人たちは世界中を探してもそうはいないなぁ、と感じる。

なんというか、やらかすことの規模が大きいというか、時代が変わってるのに変わらないことが多すぎたり、民衆が色んな意味でスレてて逞しいなぁ、とか。

日本に住んでいて、日本人(たまに外人)に囲まれて生活していても感じられない、大陸の人たちの面白さに久しぶりに接することができた読書体験だった。

2008年03月05日

毎日が冒険 - 高橋歩


Title: 新装版 毎日が冒険
Author: 高橋 歩
Price: ¥ 1,365
Publisher: サンクチュアリ出版
Published Date:

「とにかくやってみよう」がキーワードの本。
カウボーイ志望だった高校時代に始まり、大学時代のストリートでの弾き語り、ピザ屋のバイト、怪しい成功哲学合宿、バーテンダー、イルカとサイババ、そして出版社の立ち上げ・・・。

その場の勢いとノリで色んなことをやり遂げてしまう著者のパワーに圧倒されて、「自分もやってみるか」という気分になってくる本だと思う。
実際、みんな「やってみないと」とは言うけれど、とことんまでやることはできていないことが多いのだよね・・・。

2008年03月04日

変わる家族 変わる食卓 - 岩村暢子


Title: 変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識
Author: 岩村 暢子
Price: ¥ 1,890
Publisher: 勁草書房
Published Date:

1960年以降生まれの主婦を対象とした、家庭の食卓調査を通じて現代の家族の食生活の姿の変移を分析した本。

「朝からカップラーメン」とか、そういったアリエナイ食生活を紹介して読者を驚かして問題提起をする・・・といったありがちな展開に終始するのではなく、あくまでクールな視点から、家庭の食卓という現場を通じて現代の家族の姿や、それを取り巻く社会の変化に厳しい視線を向けていて、興味深く読めた。
まともな食生活を送らなければと思いながらも、ついつい楽な選択をしてしまう自分にとっては、実に耳が痛くなる本でもある。

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問題は、昔ながらの食生活が必ずしも「正しい」わけではない、ということなのだと思う。栄養をある程度考えて献立を考えて、まめに買い物をして、おかずを何品か準備して・・・といった手間は、それが身に付いていなければ実践することは(ほとんど)無理だし、ちょっとやそっとの努力で身に付くものでもない(逆に言うと、こういった基礎体力を身につける、ということには金銭的な価値以上の価値がある)。
核家族化が進んで、家族の人数が3人とか4人とかになって、いくらでも回りに楽をできる手段が転がっていたときに、あくまでもストイックにそういったやり方を維持することを多くの人に求めることはできないのだろう。

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社会のあり方の変化によって、家族の形や食卓の姿が変化を余儀なくされるものである、ということは間違いない。だけど、家族や食卓といったアナログで身体的なものは、そういった大きな変化に対して、見えないところからジワリジワリと変わっていって、いつの間にか全く異なったものになってしまうのだと思う。数値化できたり、目に見えたりするところだけで「よい」と判断してしまうことの危うさは、常に意識しておくべきなのだと感じた。
こういった時に、一番信頼できるのは、身体的で、アナログ的な感性なのだと思う。

食生活で起きている変化から透けて見えてくる「対話のない家族」だったり、「ネタでしかつきあえない人たち」の姿は、自分とは全く無関係ではなく、色んなことを考えさせられる読書体験だった。

2006年09月12日

ハリネズミと狐 - バーリン


古本屋でタイトルが気になって買った本。

ロシア生まれ、イギリス育ちのユダヤ人哲学者バーリンによるトルストイ論。
人を何でも知っている狐とでかいことをひとつだけ知っているハリネズミとの二種類に分類するところからはじめているのでこの題名らしい。
一通り読んでみたけれど、何がなんだかさっぱり分からなかったのでまたの機会に読むことにしよう・・・。

2006年01月17日

陶淵明全集 - 陶淵明


東晋・宋に生きた詩人、陶淵明の全作品を収録した文庫本。
川島雄三監督が好きだった、という雑詩(下巻に収録)に興味があったので、当時の中国人気風と漢詩に慣れたくて一通り読んでみた。

陶淵明はちょっとした苦労人で、彼の詩にはいつも「酒がない」だとかそんな残念な感慨に満ちているのだけれど、「一発何かやってやる」みたいな張り切りがなくって、ただ「心地よく生きよう」みたいに諦めているところがあるのがとてもすがすがしい。
中国人らしくなく(と言っては失礼だけれど)とても人間的な人で、我が子を思う心や自然を愛する心がとてもダイレクトに伝わってくる。

20代後半から官史として仕えるものの、縁故のない淵明にはろくな仕事がまわってこない。とはいえ、仕事がなければ生活がなりたたないので、そのままフラフラと仕官生活と隠遁生活を積み重ねた挙げ句の41歳、ついに彼は決心して故郷の田舎で自由気ままな生活を始めることを決意するのだ。

庶民の発見 - 宮本常一


貧しいながらも多くのものに囲まれて生活していた日本の「田舎の」民に関する本。

嫁・婿のシステムや、一家が生き残っていくための知恵、出稼ぎや村の政治、教育や伝承まで、今でも多くの日本人に見られる行動体系に直結した昔の生活が描かれている。

「かつて西日本の念仏宗のおこなわれている村々では、夕飯がすむと木魚をたたいて念仏申す声が家々からながれでていたものである。それが一つのリズムをつくって、ある平和を思わせた。・・・・。ところが、いまはどの家からもラジオの声がながれでている。そして、それはどの家もどの家もみんな同じものなのである。家々がうみだす声ではなく、中央からの単一の声である。」

「農民たちは、それぞれの与えられた環境の中で生き、それをあたりまえと思い、大きい疑問ももたなかった。しかし周囲との比較がおこってくると、疑問もわき、また自分たちの生活がこのままでよいかどうかの検討もおこってくると、疑問もわき、また自分たちの生活がこのままでよいかどうかの検討もおこってくる。そうした場合に大切なのは、まず自分たちの力を正しく知ることであった。それには、比較と実験に待つことが、まず大切大切であった。旅が尊ばれたのもそのためであり、経験の尊ばれたのもそのためである。」

「村の中のすぐれた知識をもっていた者が、その知恵を発揮したために、かえって将来をおそれられて殺されたという話は、かつてよくきいたところであった。」

**

日本人の土地へのこだわり(=土への愛情)は、農民的な感情が強いのかなぁ、と思った。我々はエンジニア的姿勢で土と接してきた農民の子孫なのだ。

2006年01月13日

われわれ自身のなかのヒトラー - ピカート


ナチスの台頭を許した近代ドイツで何が起きていたのか、という観察を通じて、連関性を失った近代の人間像に迫った良書。
自分が考えていたことと共通点も多く、とても印象的な読書体験だった。

内容としては、連関性の失った人間、「ロゴスの喪失」、そして連関性のない世界での秩序(もしくは真空)に関する詳細な著者の視点を提供した上で、ナチスというシステムがいかにして連関性を失った世界で台頭したかが書かれている。
前半部分で著者の主張はほとんど展開されてしまうので、後半部分は冗長的な感じがした。

著者はナチの外貌を評してこんな言葉を紡いでいる。

“巨大な空無の堆積から何事かを吠えるような声が聞こえてくるー押し出されたような叫び声が発せられてはいるのだが、それが命令をくだす者の叫び声なのか、或いは圧迫に耐えかねて悲鳴をあげる被命令者の叫び声なのか定かでない、ーーまた腕が振り上げられるのだが、それが人を殺すために振り上げられた加害者の腕なのか、或いは抵抗しようとして振り上げられた被害者の腕なのか定かでなく、絞首人の腕か或いは被絞首人の腕か見分けがつかない、ーーさて、それから一瞬間静かになる、しかし、以前の叫び声がどこから発せられたのか確かでなかったのと同じく、この静けさもどこから生じたものなのか確かでない。いや、叫声を発し、そしておのが叫声を呑み込むときに一瞬の静寂を生ずるところのものの正体は、実は空無自体なのだ。が、やがてふたたび、この空無から一つの叫び声が恐ろしい勢で押しだされてくる。それは叫び声としか言いようのないものである。そしてこの叫び声が空無自体なのだ。”

また、人間存在、またはその相互関係に意味を与えるものとしての「愛」についてはこんなことを書いている。

”人間のもろもろの体験が時の経過とともに次第に遠方へと押しやられるだけではなく、次第にその意味を失ってゆくこと、このことは、経過し消滅してゆく時間の有する性格の一つである。そのために人間はもはや自己の体験に対して、当然払うべきはずの関心を寄せえなくなる危険にさらされる。自己の体験に至当な関心を抱き続けるためには、「愛」が必要なのだ。
真の内的連続性を創造するものは、この「愛」である。ひとりの人間の過去をーーひとりの人間が体験したすべてのものをーー内的統一へと結晶せしめるのは、まさにこの「愛」である。人間が過ぎ去ったものに愛情を寄せることにより、つまり彼が過去のものを愛情をもっと受け容れることによって、彼はそれを一つの秩序のなかへ、とりもなおさず一つの連続性のなかへと置くのだ。そして神が「連続」であるだけではなく、また「永遠」であるのは、神があらゆる事物や人間を最大の愛において抱擁している正にそのためなのである。”

少しキリスト教的な香りのする文章だけど、「愛」と「永遠」ということについて、素晴らしくうまい点をついていると思う。