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甘粕正彦 乱心の曠野 - 佐野 眞一

伝記


Title: 甘粕正彦 乱心の曠野
Author: 佐野 眞一
Price: ¥ 1,995
Publisher: 新潮社
Published Date:

大正~昭和という、時代の闇に包まれた「甘粕大尉」に迫ったノンフィクション。

甘粕大尉というと、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた狂信的な国家主義者という印象が強い。憲兵時代に関東大震災発生直後の混乱に乗じてアナキスト大杉栄の殺害をしたとされる「甘粕事件」は有名だし、満州建国のためのスパイ活動や皇帝溥儀の亡命の手助けをしたりといったアウトロー的な活躍も知られている。さらに、「満州の夜を牛耳った」といわれる満映事務長時代にも様々な逸話を残し、終戦後に満映事務長室で青酸カリを飲んで自殺した人・・・というところまでは、なんとなく頭にあった。

・・・のだけど、この本を読むと、日本帝国の浮沈に運命を弄ばれた名家出身のエリート実務家という彼の一面が浮き上がってくる。ダークな印象ばかりが先行して、実際の人となりが語られることは少ない甘粕大尉だけど、

- 甘粕家が上杉謙信に仕えた猛将の末裔であること
- 陸軍幼年学校、陸軍仕官学校を卒業した軍人のエリートコースを歩いていた人物だったこと(訓練中の落馬で足を痛めて憲兵となった)
- 満映事務長時代はユーモアを解する有能な実務家として周囲の人間から好意的に扱われていたこと(終戦時は満映社員全員が無事に日本に帰れる手はずまで整えていた)

といったことを知るにつけ、いかに「大杉殺し」という事件が甘粕正彦という人間を深くて濃い闇の中に突き落としたかが分かったような気がする。陸軍の将校クラスになるはずだった人間が、不運な事故でその道を閉ざされ、失意の中で憲兵大尉に出世したと思いきやその生真面目さ&責任感を買われて「大杉殺し」の罪を被らされて、そのダークなオーラを身にまとったまま満州国の塵となった・・・というのが本書で描かれている「甘粕大尉」だ。

大杉殺しについては、「裁判における一貫していない証言」や、周囲の人間に漏らした思わせぶりな発言、そして事件に関与した憲兵の遺族達による証言から、本の中では大杉殺しの下手人を特定すると同時に、甘粕大意による大杉殺しは軍部によるスケープゴートであるという結論に至っている。事件から85年が経過しており、断片的な情報しかない中で結論に飛びついている感は否めないものの、この本の中で描かれている状況からすると、彼が無罪であった可能性は十分にありそう。

責任感や義務感が強かった彼にとって、昭和初期という時代は生きにくい時代だったのだろう。陸軍士官学校時代の同期に送った手紙が彼の本音を吐露しているように思う。

「私は事故の境涯上一生懸命に何かをやればよいのだ。知己を現代に求めやうとしたり、よく思はれようなどと思っては間違ひなのだ。此の世の中で何かをやれば必ず悪口されるものだと悲しくも悟り諦めている。だが然し人間はどうしても孤独では此の世に生存出来ないシロモノだ。悲しいにつけ嬉しいにつけ癪に障れば癪に障ったで、秘密を持てば持ったで誰かに訴へてみたい心に逼られるものだ。」P.286