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2009年03月22日

電化製品列伝 - 長嶋有


Title: 電化製品列伝
Author: 長嶋 有
Price: ¥ 1,500
Publisher: 講談社
Published Date:

小説や漫画、それに映画の中に出てくる電化製品の描かれ方を通して、我々の生活の中に溶け込んでいる電化製品について(もちろん作品本編についても)熱く語ってしまおう、というエッセイが収められた本。

電化製品が日本人の生活の中に入るようになってから数十年しか経っていないわけだけど、この本に出て来るのはいわゆる王道的だったり懐古趣味的な家電製品(洗濯機、冷蔵庫、レコードプレーヤーなど)ではなく、ちょっとマニアックで微妙なポジションにいる電化製品。例えばズボンプレッサーやホットプレートなど。

長嶋有さんの文章を読んでいて思うのは、彼のモノに対する優しい視線でありさりげない愛情。お父さんの康郎さんが国分寺の名物的小道具屋さんのニコニコ堂店主であることも関係しているような気がしているのだけど、(比較的)自分に近い世代の人で彼ほどまでに身近な世界のものを愛おしく描ける人はいないように思う。文章はあくまで平易で読みやすく、しかも優れた洞察力でグイグイ人を引き寄せる。

2009年03月20日

山と渓谷 - 田部重治


Title: 新編 山と渓谷 (岩波文庫)
Author: 田部 重治
Price: ¥ 735
Publisher: 岩波書店
Published Date:

ずぅ~っと前に途中まで読んで、4年以上ほったらかしていた「山と渓谷」を読破。

明治~大正の日本近代登山史の黎明期に活躍していた著者の山旅や、山に対する思いをあれこれ綴った本。オリジナルは「日本アルプスと秩父巡礼」で、昭和5年に出版されたもの。今とは違って、山に行くための何から何までもが不便だった時代の記録で、登山の計画の立て方から山に向かう交通手段から食べ物、それに山中での暮らし方まで時間のかかる方法で苦労しつつも山を楽しむ様子が大変面白かった。

約5年前に読み始めた頃は、まだ日本の山を登りはじめて間もない時期だったので、今はじめから読み直したら色々と発見があって面白いのかもしれない。

田部重治さんは英文学者としても知られていて、ワーズワースの「虹」を下のように訳している。

わが心はおどる
虹の空にかかるを見るとき。
わがいのちの初めにさなりき。
われ、いま、大人にしてさなり。
われ老いたるときもさあれ、
さもなくば死ぬがまし。
子どもは大人の父なり。
願わくばわがいのちの一日一日は、
自然の愛により結ばれんことを。

2009年03月18日

ヤバい経済学 - スティーヴン・レヴィット、スティーヴン・ダブナー


Title: ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する
Author: スティーヴン・レヴィット, スティーヴン・ダブナー
Price: ¥ 1,890
Publisher: 東洋経済新報社
Published Date:

いわゆる「経済学」という枠にとらわれずに、経済学というツールを使うことでいかに面白く世界を見ることができるか、ということを実践した本。

90年代のアメリカで犯罪が激減した理由は「1970年代の中絶合法化」であるとか、相撲には八百長が存在するとか、子育てにおける親の存在価値だとか、クークラックスクランと不動産屋の類似点だとか、どこか「ヤバい」香りのするネタがたくさん詰まっている。

マジメでカタい学問になってしまった「経済学」とは対照的に、数値をいじってどうにでも結論を出せてしまう(ような印象を受ける(偏見ですみません))「社会学」が扱っているようなネタに、経済学的アプローチを持ち込むことで、世間の常識とはかけ離れた興味深い考察を行っている。

人が流動的に活動する社会の中で筆者が注目するのは「経済的インセンティブ」「社会的インセンティブ」「道徳的インセンティブ」の三つ。

個人的に「いわゆる」経済学がどうしても好きになれない人間なのだけど、こういう切り口は大好き。故・森嶋道夫さんもよく本の中で語ってたけど、やはり経済学はもっと自由であるべきだと思うんだよね。

2009年03月09日

甘粕正彦 乱心の曠野 - 佐野 眞一


Title: 甘粕正彦 乱心の曠野
Author: 佐野 眞一
Price: ¥ 1,995
Publisher: 新潮社
Published Date:

大正~昭和という、時代の闇に包まれた「甘粕大尉」に迫ったノンフィクション。

甘粕大尉というと、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた狂信的な国家主義者という印象が強い。憲兵時代に関東大震災発生直後の混乱に乗じてアナキスト大杉栄の殺害をしたとされる「甘粕事件」は有名だし、満州建国のためのスパイ活動や皇帝溥儀の亡命の手助けをしたりといったアウトロー的な活躍も知られている。さらに、「満州の夜を牛耳った」といわれる満映事務長時代にも様々な逸話を残し、終戦後に満映事務長室で青酸カリを飲んで自殺した人・・・というところまでは、なんとなく頭にあった。

・・・のだけど、この本を読むと、日本帝国の浮沈に運命を弄ばれた名家出身のエリート実務家という彼の一面が浮き上がってくる。ダークな印象ばかりが先行して、実際の人となりが語られることは少ない甘粕大尉だけど、

- 甘粕家が上杉謙信に仕えた猛将の末裔であること
- 陸軍幼年学校、陸軍仕官学校を卒業した軍人のエリートコースを歩いていた人物だったこと(訓練中の落馬で足を痛めて憲兵となった)
- 満映事務長時代はユーモアを解する有能な実務家として周囲の人間から好意的に扱われていたこと(終戦時は満映社員全員が無事に日本に帰れる手はずまで整えていた)

といったことを知るにつけ、いかに「大杉殺し」という事件が甘粕正彦という人間を深くて濃い闇の中に突き落としたかが分かったような気がする。陸軍の将校クラスになるはずだった人間が、不運な事故でその道を閉ざされ、失意の中で憲兵大尉に出世したと思いきやその生真面目さ&責任感を買われて「大杉殺し」の罪を被らされて、そのダークなオーラを身にまとったまま満州国の塵となった・・・というのが本書で描かれている「甘粕大尉」だ。

大杉殺しについては、「裁判における一貫していない証言」や、周囲の人間に漏らした思わせぶりな発言、そして事件に関与した憲兵の遺族達による証言から、本の中では大杉殺しの下手人を特定すると同時に、甘粕大意による大杉殺しは軍部によるスケープゴートであるという結論に至っている。事件から85年が経過しており、断片的な情報しかない中で結論に飛びついている感は否めないものの、この本の中で描かれている状況からすると、彼が無罪であった可能性は十分にありそう。

責任感や義務感が強かった彼にとって、昭和初期という時代は生きにくい時代だったのだろう。陸軍士官学校時代の同期に送った手紙が彼の本音を吐露しているように思う。

「私は事故の境涯上一生懸命に何かをやればよいのだ。知己を現代に求めやうとしたり、よく思はれようなどと思っては間違ひなのだ。此の世の中で何かをやれば必ず悪口されるものだと悲しくも悟り諦めている。だが然し人間はどうしても孤独では此の世に生存出来ないシロモノだ。悲しいにつけ嬉しいにつけ癪に障れば癪に障ったで、秘密を持てば持ったで誰かに訴へてみたい心に逼られるものだ。」P.286

2009年03月02日

日本語が亡びるとき - 水村美苗


Title: 日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
Author: 水村 美苗
Price: ¥ 1,890
Publisher: 筑摩書房
Published Date:

「世界を繋ぐ言葉としてこれだけ英語が使われている状況で、日本語ってこれからどうなっちゃうのかしら」ということを説いた本。

巷に溢れる「言葉の乱れで言葉が滅ぶ」みたいな能天気なことを書いている本とは一線を画した視点から議論が展開されているので、大変読み応えがある。子どもの頃からアメリカに暮らしながらもアメリカになじむことができず、日本文学に染まりながら成長し、「文句なしにカッコイイ」フランス文学を大学で学んだ著者だからこそ書けた本だと思う。「日本語への愛」30%増し。

著者は、言語を以下のカテゴリーに分けている。

現地語: ひとつの言語圏で日常的に用いられている言語。
普遍語: ひとつの文化圏で普遍的に用いられている言語。
国語: 近代国家の誕生と共に発達した「ひとつの国において現地語が普遍語に昇格した」言語。

例えば、中世~近世のヨーロッパではそれぞれの地方で使われている現地語(ヨーロッパの各種言語)とは独立して聖職者や学者達によって「読まれるべき言葉」を残すために使われていた普遍語(ラテン語)が存在しており、この「普遍語」を使いこなすのは限られたエリート達だけであり、彼らは二重言語者であったということができる。この構造は中華文化圏でも同様で、漢文という普遍語にアクセスできる文化人は日本においても常に一部の上流階級や僧侶に限定されていた。

この状況が崩れたのは近代国家の誕生に伴う「国語」の発生で、ひとつの国家の中で「読まれるべき言葉」が蓄積・活用されるに伴って「普遍語」の役割の一部を「国語」がまかなうようになった。

こうした世界の動きの中で、日本語が「国語」として立ち上がることが出来たのは、日本が漢文文化をベースに独自かつリッチな言語文化を持っていたことと、独立国という立場を貫き続けることが出来たという幸運によるものだと著者は指摘している。また、数百年もの間閉鎖的でドメスティックな言語だった日本語が世界の「言葉」を受け止めることのできる「国語」に昇格することができたのは、明治時代の偉人達による働きが多いという点にも著者の筆は及ぶ。

「世界語としての英語と、ローカル言語で書く人たち」、そして「没落したフランス語」というテーマによる前半の導入部分は少しダルい印象を受けるものの、2009年に読んだ本で今のところ一番面白い本だったと思えるインスパイリングな読書体験だった。

文化の礎となる「言葉」という切り口から発せられた、鋭く尖ったグローバリズム批判の書。