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ハワイイ紀行 - 池澤夏樹

旅行記・写真


実に味わい深い、よい本だった。
「俗っぽい観光地」として、ハワイイ(本書に倣って、あえてこの表記に従うことにしよう)には全くと言ってよいほど興味が湧いてこなかった自分にとっては、目から鱗が落ちる読書体験となった。

池澤夏樹さんと言えば、2001年の9/11直後から朝日新聞に連載していた「新世紀へようこそ」をロンドンからインターネット越しに読んでいたことを思い出す。久しぶりに本土を攻撃されたアメリカがカンカンになって世論を煽って戦争に突入しようとしていた時期だ。今思い返すと、もしこの連載に中沢新一の「緑の資本論」が紹介されていなかったとしたら(または、もっと単純にこの連載を読んでいなかったとしたら)、僕が彼の本を読むことは(少なくとも1,2年というタイムフレームでは)なかっただろうし、チベットに行くこともなかっただろう。そして、日本に戻ってから山に登るようにもならなかったかもしれない。

考えれば考えるほど因縁のある人のように思えるが、未だに彼のまとまった作品を読むことがなかった。ここで、彼の本分と思われる小説を読まずに、あえて評判のよい旅行記を選ぶあたりが自分の天の邪鬼たる由縁なのだけれど、評判に違わず素晴らしくよく書かれた「旅行記」だと感じた。

ハワイイの魅力は、池澤夏樹さんが本の最初のほうで言っているように「自然条件や文化的条件の変異が分かりやすく保存されている」という点につきるように思われる。この本には、プレートテクトニクス(こういう単語があっさり出てくるのが池澤夏樹さんのスゴイところだ)によって生まれた、小さな島々の上で繰り広げられてきた沢山のアクティビティーが丁寧に拾い上げられ、しっかりと吟味された上で本人が自分の足で出かけていって、優れた観察眼と洞察力をもって紡ぎ上げた文章がたっぷりと詰め込まれている。

一般的な日本人から見れば「南国の陽気な踊り」としか認識されていないフラ・ダンスが、文字を持たないハワイイの人たちの伝承や歴史、そして文化を伝える芸術の一形態である、なんていうのは非常によい例のうちのひとつだ。ひとつの文明がより強力な文明に呑み込まれていく時、最後までしぶとく生き延びるのは、生活に密着し、民間で育まれたささやかな文化形態であることが多い。言葉や精神がある程度まで失われてしまったとしても、そういった小さなものを丹念に辿っていくことで元々その文化が持っていた「味」や「臭い」のようなものは、大体の所まで復元することができる。

この本を読みながら、岡本太郎さんの書いた「沖縄文化論」という本を思い出した。この本にも、小さな島々に残る小さな芸術や文化的痕跡を岡本太郎さんが辿っていく様子が描かれていて、今では随分薄くなってしまった日本的文化の「原初の香り」をかぐことができる気がするのだ。