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2006年06月27日

空へ~エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか - ジョン クラカワー


この手のドキュメンタリーにしては珍しく冷静な本。
若い頃はクライマーとして鳴らした著者が、雑誌記者になってクライミングから少し遠ざかった時期に取材として参加したエヴェレスト登山と、彼が参加した隊の悲劇がまとめられている。

1996年の5月初旬にアタックをかけた彼の隊を含む十数名は、好天に恵まれて頂上を掴んだ数時間後、突如猛吹雪となったネパール側の斜面で大規模な遭難の餌食となる。
隊を率いていた二人のリーダーは、頂上付近で行動に支障をきたした彼らの顧客を助けるためにベストを尽くすが、彼ら自身も猛吹雪の中で力尽きる。
8000mを越えた世界では冷静な判断など下しようがないし、一旦悪い条件が重なってしまえば人間の力などは微塵の力さえも発揮することができない。

ロマンチシズムを隠れ蓑にした、山男的なマッチョイズムを著者は易々と否定する。登山が魅力的であり得るのは、そこに「人のエゴ」があり、「危険を乗り越える楽しみ」があるからこそなのだ、と彼は言う。
登山という「主体的な行動」が大前提となるスポーツにおいて、意志決定も、危険個所の通過も、食事や飲み物の準備もほとんど全て他人任せになってしまう営利登山の危険性は、仮にもそれに参加する程までに知識を持った人間であればすぐにも分かりそうなものだ。そしてそれが世界でもっとも危険な場所となりうる8000mを越える高みであれば、尚更のことであろう。

所詮人は自分の能力の制約の中で動き回るのが一番合理的だし理に適っている。
能力の限界を試し、それを拡張していくための一定の努力は認められようが、それを無理矢理な方法で矯正するような真似は、時に高い代償となって返ってくることがあることをこの本は如実に示している。

2006年06月21日

反社会学の不埒な研究報告 - パオロ・マッツァリーノ


相変わらずしょ~もないけど、理にかなった楽しい話がつまった本。

権威から武士道、経済学から社会学まで痛烈にからかった挙げ句に、うさんくさいビジネス本作者を主人公にしたフィクションで猛烈に笑わせてくれる。

社会に蔓延する妙ちきりんな幻想や、「専門家」の肩書きで好き放題なことをいう人々、それに社会的システムによって守られた特権階級まで、現代社会に巣くう面白おかしげで一般庶民にとっては迷惑でしかない現象がここまでかとばかりに取り上げていて、ほんとにマッツァリーノさんの視野の広さと知識の深さに驚かされる。

2006年06月19日

ザ・サーチ - ジョン・バッテル


グーグルだけでなく、インターネットとウェブの歴史を通じて沢山の人と資本を通じて試みられてきた「デジタル情報の検索」を扱った本。

もちろん、現在において最も有効かつ実用的な検索システムを構築しているグーグルがメインな登場人物なのだけれど、会社の成り立ち(1996創業とは知らなかった。もっと新しいものと思っていた)から、苦悩していた時期、それに検索業界の盟主として君臨し、さらなる挑戦を続ける姿までをしっかり描いている。

アルタ・ビスタ、ヤフー、ライコス、エキサイト・・・、今になって考えればドット・コム・バブルという時代に輝いていたプレイヤー達はとっくに墓の中に収まってしまっている。
グーグルが持ち続けてきたストイックなまでの「技術」と「革新」に対する挑戦こそ、彼らが持つ一番の価値であり財産なのだなぁ、とつづくづく思った。

2006年06月18日

滅びゆく国家 - 立花隆


日経BPのウェブサイトに載せていた記事をまとめた本。
ほとんど全ての記事を読んでいたので、あとがきとまえがき、それに全体を斜め読みして読了。

「滅びゆく国家」というショッキングなタイトルにしたのは、立花隆さんがおぼろげに感じている日本に対する危機感だと思う。
”「あの」戦争は暴発した軍部が引き起こした「過ち」だった”という解釈はミスリーディングであり、「あの」戦争は大多数の日本国民によって支持された戦争で、軍部がその国内のムードと同調して一線を越えることにためらいを感じなくなった結果である・・・という意見は、つまり現在においてもなおムードや雰囲気に流されて大きな過ちを犯しかねない日本という国の危うさに対する警鐘なのだと思う。

とりあえず、これから10-20年における日本にとって最大のリスクは、経済的な意味で起きる可能性が一番高い気がする。
車産業を代表として、世界的に確固たる地位を気づいているように見える日本の経済力だけれど、本質的な意味での価値創造をすることにはここしばらく成功していないのではないだろうか。少なくとも、コンピューター技術において日本の置かれている状況はかなりマズい。

具体的にどういった形で日本が大きな失敗を犯しうるのか、ということは見えないけれど、経済的に行き詰ったり下手なプライドを汚されたりするような事件が続いたりすれば、第二次大戦クラスとは言わなくとも政治的・経済的に大きな損失を伴うようなことが起きて国際的信用をなくして・・・という泥沼にはまって実質的に日本が現在からは想像もできないような貧乏国になってしまう可能性は大いにあるのではないか、と思った。

2006年06月03日

アルプス登攀記 - エドワード・ウィンパー


イギリスのエドワード・ウィンパーが、1861年から1865年にかけて行ったアルプスの登山記録がまとめられた本。

科学主義がようやく一般にも浸透し始めていた時期で、「決して登ることができない山」「魔物が住む山」として現地のガイドにも恐れられていたマッターホルンへの彼の挑戦が主軸となっている。
現在の風光明媚な観光地というイメージとはかけ離れた当時のアルプス地方の雰囲気や、アルプスを横断する大トンネルの工事の模様、それに氷河が岩に及ぼす影響や、モレーン(堆石)がいかにして作られるかなどなど、イギリス人旅行者らしく雑多な知識を駆使してたくさんの興味深い意見を述べている。

結局ウィンパーは8度目の挑戦でようやくマッターホルンの頂上を極めることに成功するのだけれど、そこに行き着くまでの彼の執念深いとまで言える努力には驚かされる。
登山技術はもちろんのこと、ルート探索からよりよい交通の便を得るための峠越えや、優れたガイドとの出会いなどなど。
例によって、成功時の登攀自体は全く問題なくことが運ぶのだけれど、悲劇は下山の開始時に突然起きてしまうのだ・・・。

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ウィンパーの登山家としての業績は素晴らしいし、アルプスの開拓者として永遠に名を残すのだろう。と同時に、彼が持っていた登山家としての精神もきちんと語り続けられるべきだろう。

「劇は終わった。幕が降りようとしている。読者と別れる前に、登山の重要な教訓について、ひとことだけ述べて置きたい。遙か遠くに高い山が見える。ずいぶん遠くである。「不可能だ」という言葉が、ひとりでに出るかもしれない。しかし登山家は言うだろう。「不可能なことはない。道は遠いだろう。登るのも難しいだろう。その上に危険かもしれない。だが可能なのだ。まず登路を捜してみよう。それから登山家仲間の意見を聞いてみよう。彼らが同じよな山に、どのようにして登ったかを聞き、どのようにして危険を避けたかを学ぼう。」そのようにして、彼は山へ登っていく(下界の人びとはまだ眠っている)。」

登山という行為の素晴らしいところは、登山に含まれるスポーツ及び文化的行動としてトータルな力量が試される点だと思う。「何かを達成する」という人間が長らくやってきた行為のほとんど全てが登山には含まれていると思うし、何かを達成するためには立ち止まって考えることも必要だし、がむしゃらに突き進むことも必要なのだ。
「そこに山があるから」という言葉はあまりにも有名だけれど、ここには「登山」という行為の持つ意味が全て含まれているのだと感じた。

うさぎ! - 小沢健二


知らぬ間に小沢健二が新しいアルバムを出していて、さらに童話風の小説なんかも書いて、お父さんの小澤俊夫さん(童話研究家)が編集している「子どもと昔話」という季刊雑誌に発表していた。

小説の名前は「うさぎ!」で、よくよく調べてみたら小沢健二のホームページのホームページで公開していたので、早速読んでみた。

一般的な童話のように抽象化された分かりやすい言葉を使う代わりに、彼独自のウィットが光る、へんてこりんな比喩がたくさん使われているのがまず目を引く。
これは、ある意味「現代の童話」と言っても良いのかも知れない。
物語の雰囲気といい筋といい、エンデの「モモ」に非常に近いものを感じる。物語に登場する「灰色」は「モモ」に登場する「時間泥棒」にとても似ているのだけれど、小沢健二は童話的手法をあえて取らずに、「灰色」の気持ちをうまく代弁していくことで、物語(仮想的な現代社会の縮図)の状況を鮮明に描くことに成功している。

1995年に没したエンデの時代から10年以上経って、エンデが鳴らしていた警鐘は人の耳に届いていない。
「開発途上国」という名の下に、その国の人たちが本来持っていた豊かさと引き替えに、経済発展を進める国々。
そして「先進国」という名の下に、寝る間も惜しんで働きながら、ますますマネーゲームの渦中へと飛び込んでいく先進国の人々。

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「うさぎ!」は、父親が童話研究家、母親が心理学者、という特殊なバックグラウンドを持った小沢健二による現代批判であるように思える。
厳密に言うと、これは現代に限らず人類史上常に問題とされつづけた「人を愛する」ような基本的なことを主題としていて、ある意味においては宗教的であるとも受け取ることができる。
小沢健二がこれまで何度も歌の歌詞に書いてきたように、人生を本当に楽しくするのは組織だとかお金だとかにとらわれずに「自分のために何かを創造して、その価値観を共有する」ような、そういったことを彼はこの物語でも訴えかけようとしているのだろう。
クリエイターとして彼の才能が、また大きく羽ばたくことを期待したい。

「喜びを他の誰かと分かり合う それだけが心の中を熱くする」(痛快ウキウキ通り)