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ジプシー・ミュージックの真実 - 関口義人

文化・芸術


中身の詰まった本。
イスラム教徒の侵入を受け、居場所のなくなったインドを離れて10世紀の間ヨーロッパ世界中に散らばって生活しているジプシーの姿を素晴らしくよく描き出している。

この本の試みが成功しているひとつの大きな理由は、やはり「音楽」というジプシーにとって切り離すことのできないものを通して彼らの取材を行っていることだろう。たどり着いた先の土地に住み着くか、放浪生活を通じて自分のたちの生業を続けていく、彼らの多難ながらもアナログな喜びに溢れた生き様が文章に溶け込んで強く訴えかけてくるように感じられた。

P.92で著者がロマに興味を持ったきっかけが書いてある。10代でアメリカに渡ってジャズ・メンとして身を起こそうとして経験した苦労は、すなわちある特定の世界における差別と閉鎖性の強い認識であり、それを通じて著者はロマに「深い共鳴感」を抱いた・・・とあるのはとても理解できる。

住んでいた場所を追われて放浪する民族、といえばイスラエル建国前のユダヤ人がそれだが、ユダヤ人とジプシーの大きな違いはその民族としてのアイデンティティーの拠り所を何に求めたか、ということだと思う。
ユダヤ人は「律法」にそれを求めたし、ジプシー達はもっと日常的で観念的、そしてインド的な「穢れ(=タブー)」にそれを求めた。
ジプシー達が刹那的人生を生きたのに対して、ユダヤ人達は「大いなる律法を守る民」という意味づけを背負って生きたのが現在の彼らの運命を分けた分水嶺なのではないか、と思う。

P.109あたりの「正義」に関する言及も非常に鋭い。世界には人と、人のグループの数だけ「立場」があるわけで、その混沌の中で叫ぶ「正義」の掛け声の無意味さは改めて捉えられるべきものなのだ。

そして何よりも素晴らしい偶然が、ちょうど先週エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」を見たばかりであった、ということだろう。
この映画は映像も音楽も、ぶっ飛んだ筋書きも最高に気に入ったのだけれど、主な登場人物の一人「ブランキー」の傍らに常についてまわるブラスバンドの存在がとてもとても気になっていて、それが90年代に活躍した代表的なロマ・ブラス、スロボダン・サリエビッチとボバン・マルコビッチだった・・・ということで妙に納得した。物悲しいトーンや陽気なトーンをうまく使って、音楽が物語をリードする映画なのだ。