« 2005年10月 | メイン | 2005年12月 »

2005年11月23日

自由は進化する - ダニエル・C・デネット


山形浩生翻訳で、面白そうに思えたので読んでみた・・・のだけど、途中からのゴチャゴチャした哲学的議論が面倒になったのでパス。
山形浩生による解説でなんとなく理解したつもりになれたので、また機会があれば読むことにする。
経験上、こういう事を考えて読んだ本は一冊もないけど・・・。

「決定論の名のもとに運命論者的な考え方をするのはちょっと違うんでないかい?」という本で、「人間は本質的な自由を持っていないのでは?」という思想に対して真っ正面から挑むために哲学的作法にのっとった難解な議論が延々書き連ねられている。

高校生の頃に「ブラウニアンモーション(ブラウン運動)」を知って以来、僕も「おおまかでマクロな視点から見れば、意志を持つとされる人間もこういうランダムな動きで認識されるのだなぁ・・・」と考え続けて今に至っている。

デネットさんが強調するのは、生物の進化の過程で「回避」の仕組みが果たした役割の大きさと、それに続く人間による「自己意識の発見」がこの自由に関する論争においてどういう意味を持つか、ということだ。
シンプルなルール付けによって生物をシミュレーションすることが出来るシステム(実際に「ライフゲーム」というソフトも存在する!)を例に挙げた説明はとても分かりやすい。

結局この問題は何をもって「自由」を定義するか、とかそういう所に落ちていってしまうような気もするのだけれど、この本はおおまかな意味で「人間が自由を持っている」確信を与えてくれた気がした。

2005年11月12日

ソロ - 単独登攀者 山野井泰史 - 丸山直樹


ちょっと饒舌すぎる感があるけれど、山野井泰史さんの98年までの足取りがよくまとまっている。

子供の頃から「山に登って生きる」ことを実践してきた山野井さんは、あくまでシンプルにその生き方を続けている。
彼の山に対する(特にソロに対しての)こだわりを解き明かそうとすることに多くの言葉がつづられているのだけれど、色々語った割にうなずける意見がなかったのが残念。

アルパインクライミングとエクストリームクライミング(極地法)の違いや、厳しい環境でのクライミングがいかに大変なものかが少しずつ分かってきた気がする。
日本では「海外登山に遠征」なんていうと未だに大げさなキャンプを張った「遠征」を想像しがちだけれど、世界の先鋭なクライマー達の関心はもはやそこにはないのだなぁ、と思った。

それにしても、ソロでクライミングするのは信じられないほどの恐怖に違いない。その恐怖との闘いは「自分との闘い」であると同時に「自分の立場との闘い」もある。
前者は何をやっても超えねばならないものだけれど、後者はシンプルに人生を生きることでミニマムに絞ることができる。
だから、ソロという形はその人しだいでいくらでもその意味付けが異なってくるものだろう。

2005年11月06日

16歳のセアラが挑んだ世界最強の暗号 - セアラ・フラナリー


アイルランドの女の子が学業のコンテストで暗号学の発表をやったのを皮切りに、独自の公開鍵暗号の開発・実装まで手を広げ・・・という物語。

セアラの家庭環境はいかにもアイルランド風でのんびりしている。
お父さんは数学の先生、お母さんは微生物学の先生として大学で教えていて、5人兄弟の7人家族は農場の真ん中にある農家で暮らしていて・・・という具合だ。

子供時代に父から出されたクイズの話や、物事の本質を見極める才能に長けた母親のエピソードはとても印象的。
トランジションイヤー(中学から高校の間に1年間好きなことができる制度)を取ったセアラはお父さんが開いていた大学での夜間講座「数学への旅」に出席し、そこで数学の面白さを存分に知る。

セアラがコンテストで活躍し、ロン・リヴェスト(世界で初めて実用化された公開鍵暗号のRSAはMITの3人の科学者の頭文字を取ったもので、そのうちの"R"の人)から電話がかかってくるくだりや、一躍時の人になってしまった彼女の興奮ぶりが読み取れる文章はとにかく熱い。

**

数学が好きな人にたまらなく面白い読み物だと思う。
本の中で幾度となく触れられるサイモン・シンの「暗号解読」と「フェルマーの最終定理」が好きな人ならきっと世を徹して読みふけってしまうことだろう。

ちなみに英語圏では"Sara"を日本風に「サラ」と読み、"Sarah"は「セイラ」と読む。後者には少しだけ“ア”の発音が真ん中に入るので、「セアラ」も間違ってはいないと思うけど、個人的には少し違和感を感じた。

2005年11月05日

ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代 (下) - ゲーテ


ヴィルヘルムの遍歴の終わりと、結社の人たちの新しい動き・・・。

断片的に面白いのだけれど、話全体の流れがうまく把握できなくて辛い読書になってしまった・・・。修業時代からの繋がりがところどころで出てくるのだけれど、修業時代を読んだのが4,5ヶ月も前だからなぁ・・・。

優れた人たちが色々なことを体験して、色々なことを考え、そして色々な人たちと出会って・・・ということが書かれている本。

いつか機会があればまた修業時代から通して読んでみたい(最近こんなんばっか)。

2005年11月03日

嗤う日本の「ナショナリズム」 - 北田 暁大


題名には「ナショナリズム」とあるけれど、60-70年代から現代へと繋がる時代空気を社会学的に概観した本。
少し前に読んだ「カーニヴァル化する社会」とかぶるところが多いものの、こちらのほうが65倍くらい難解な書き方がされている。

連合赤軍の浅間山荘事件は名前だけ有名だけど、具体的にどういうことが起きていたかは知らなかった。勢いがなくなってしまった学生活動のグループが山に籠もり、「総括」という名の自己回帰的反省を一人歩きさせて仲間をリンチして・・・ってのはなんともお粗末な展開。
糸井重里さんが60年代はバリバリのカツドウカだったのは知らなかった・・・。彼も彼なりにその時代時代の空気に流されて生きてきて(というかあの時代は特に流されやすい時代だったのであろう)いたのだな、と思った。

大きな物語の損失やニヒリズム、それに・・・と社会学で扱うネタは哲学的なものから文化学的なものまで限りなく幅広い。
ちょっと盛りだくさんすぎて読むのが疲れるけれど、面白い本。